行動力がなくて環境が変えられない人へ|否定をやめて自分を肯定する心理

行動力がないくて環境が変えられない|否定をやめて自分を肯定する心理 メンタルヘルス

家を出てしまえばいい、と言われたことがあります。

親のもとにいてストレスが溜まって、眠れなくて酒を飲んでいるなら、出ればいいじゃないか。理屈としては正しいです。

でも、それができないから苦しんでいました。

この記事では、私が十年以上を過ごしてきた部屋の話と、そこから離れるために実際に何をしてきたかを書きます。環境を変えろという言葉が、どうして一番つらい言葉になるのかという話でもあります。

中学1年で、物置部屋に移りました

兄との部屋の取り合いに負けて

もともとは兄と同じ部屋でした。中学1年のとき、その部屋の取り合いになって、私が負けました。

行き先がないので、家の物置部屋を自分で掃除して、自分の部屋にしました。

隙間風と、ノコギリと、虫

物置なので、部屋として作られていません。

隙間風がすごく入ってきます。ロフトにはノコギリの刃が飛び出していました。虫も相当出ました。

それを全部片付けて、自分の部屋にしました。エアコンはありません。真夏も真冬も、その部屋で過ごしました。

辛かったです。寒いし暑いし、生きている心地がしませんでした。

それでも、良い思い出もありました

ただ、悪いことばかりではありませんでした。

あの部屋は、家の中で一番隔離されていました。だから誰にも侵食されませんでした。家族の誰よりも、自分の領域が守られていたとも言えます。

それと、物置部屋には外に直接つながるドアがありました。家の中を通らずに出入りできます。だから友達をそのまま招き入れて、遊んだり、泊めたりしていました。

いま思い返すと、あの時期にしかない良さもありました。

眠れなくて、酒を飲み始めました

あの部屋で眠れなかったことが、酒を飲み始めたきっかけの一つでもあります。

寒さや暑さで寝つけない。頭の中も静まらない。それで飲むようになりました。

環境が人を作る、という話をよく聞きますが、私の場合はかなり分かりやすい形でそうなりました。

24歳ごろ、元の部屋に戻りました

エアコンを1年間つけられませんでした

兄が就職して家を出たとき、ようやく元の部屋に戻ることができました。24歳ごろだったと思います。

その部屋にはエアコンがありました。最後にエアコンのある部屋で寝たのは、小学6年生のときです。十年以上ぶりでした。

ところが、つけられませんでした。

自分がエアコンを使うことに罪悪感が出てくるのです。結局、最初の1年間は一度も使いませんでした。

カーテン1枚しかない部屋

環境としても、楽にはなりませんでした。

親との距離が近くなったぶん、居心地はむしろ悪くなりました。

しかもその部屋は、壁がありませんでした。仕切りはカーテン1枚だけです。そのカーテンの向こう側を、親が自分の部屋と階段の行き来で通ります。

プライバシーがまったくない状態でした。あとで頼んで、壁を作ってもらいました。

窓を開けて、太陽を浴びる

その部屋でやっていたことが一つあります。

毎朝、窓を開けて太陽を浴びて、深呼吸をしていました。それで心を整えていました。

大げさなことは何もしていません。窓を開けて、息を吸って吐くだけです。それでも、あるのとないのとでは違いました。

「家を出てしまえばいい」と言われて

出られなかった理由

冒頭の話に戻ります。

出ればいい、と言われても、そのときの私には対人恐怖がありました。人と関わることが怖い状態で、知らない土地に行って、部屋を借りて、働いて生活する。それができる状態ではありませんでした。

正しい助言なのは分かっていました。分かっていて、できませんでした。

その言葉を聞くたびに、できない自分が浮き彫りになります。だから励ましにならないのです。

東京まで行って、失敗しました

それでも一度、力を振り絞って東京まで就職活動に行ったことがあります。

結果は失敗でした。

行けたことに意味があった、という言い方もできます。ただ、あのときは失敗したという事実しか残りませんでした。

とんでもない理屈が、あとから効いてきました

お酒のことで相談したとき、こう言われたことがあります。

飲みたくないなら飲まなければいい。眠れないなら、飲まずに眠れるまで眠らなければいい。

ごく普通の家庭で育った人でした。こちらの気持ちは、あまり伝わっていなかったと思います。

先に書いておきます。依存の状態にある人に、この言い方をしてはいけません。意志でどうにかなる話ではありませんし、追い詰めるだけです。私も当時は、とんでもないことを言うと思いました。

ただ、あとになって、ある意味では真理だとも思いました。

実際にやめようとしたとき、眠れるまで眠らなければいい、というスタンスで進めた時期が確かにあります。眠れない夜をなかったことにしようとするから飲むのであって、眠れないなら起きていればいい。そう思えたときは、少し楽でした。

人に言われて腹が立った言葉が、何年も経ってから自分の中で使えるようになる。そういうこともあります。

許す作業は、実際に何をしているのか

ここからは、私がずっとやってきたことの話です。

毒親の話になると、たいてい絶縁するかしないかという話になります。私は離れませんでした。代わりに、許す作業をやってきました。

紙に書くのは、人に見せられない罵詈雑言

作業は主に頭の中でやります。紙に書くこともあります。

紙に書くときの中身は、きれいなものではありません。人には見せられない罵詈雑言です。

許すというと穏やかな響きですが、入り口はそこではありません。まず全部出します。出しきらないと次に進めません。

頭の中で、過去の自分に会いにいきます

頭の中でやるのは、過去の自分に会う作業です。

小学校のとき、中学校のとき、高校のとき、大学のとき。それから少し前の自分、そして今の自分。順番に出していきます。

ここで手を抜きません。どんな服装をしているか、髪は乱れていないか、細かいところまで想像します。そして表情を見ます。笑っているのか、泣いているのか。そこにきちんと焦点を当てます。

膝をついて、抱きしめます

そのうえで、同じ目線になるために膝をつきます。見下ろさないためです。

そして言います。大変だったね。君は辛かったね。でも大丈夫、今の私が君を守るから。

そう言いながら抱きしめます。

何度も、涙を流しながら眠った夜があります。誰にも見せたことのない作業です。

憎み尽くした先にあったもの

100万円を超える家具と家電

憎むところまで憎み尽くしたあと、私は許す方向に舵を切りました。

そして実際に行動しました。総額で100万円を超えるくらいの家具や家電を、親に贈っていきました。

ありがとうとは言われます。ただ、それで何かが劇的に変わるわけではありません。相手の人生は相手の人生として、そのまま続いていきます。

変わってほしいと期待していた自分

その過程で、自分のほうに行き着きました。

私はどこかで、変わってほしいと期待していたのです。これだけやれば、少しは違う態度になるのではないか。そう思っていました。

許しているつもりで、取引をしていました。ここに気づいたのが、一番大きかったかもしれません。

赤の他人よりも遠い、赤の他人として

そこからたどり着いた結論があります。

家族という近い存在だからこそ、誰よりも遠い存在として扱う。赤の他人よりもさらに遠い赤の他人として扱う。それが自分にとっての心の平安でした。

冷たく聞こえるかもしれません。でも、切り捨てたわけではありません。

何かしてほしいと助けを求められたら、します。嫌なことは嫌だと言います。そこは変えていません。

愛するという感情の中には、憎しみが必ず入り込んできます。避けて通れません。その渦巻いているものを、丁寧に、客観的に、冷静なまま保ちながら、同じ家の中で生活する。

これは相当に高度なことをしていると自分でも思います。それを、今はごく普通の状態としてやれるようになりました。

あの部屋が、私に残したもの

物置部屋も、今の部屋も、当時は嫌で嫌で仕方ありませんでした。

けれど今振り返ると、あれが私を強くしたとも思います。

兄弟のあいだで扱いが違うという状況の中で、自分は何を考えてきたか。あのときに身についた思考の力は、何物にも代えがたい財産になりました。

それともう一つ。私は今、どんな場所でも落ち着くことができます。

これは、あの部屋で落ち着く技術を身につけたからです。整っていない場所で自分を整える練習を、何年もやっていたことになります。

おわりに

環境を変えればいい、という言葉は正しいです。正しいから、余計に刺さります。

ただ、順番があると思っています。

今いる場所を否定し続けている限り、心はそこに張りついたまま離れません。憎んでいる対象ほど、深く執着してしまうからです。親に対してそうだったように、部屋に対してもそうでした。

だから、いったん肯定します。ここにいてもよかった、と自分に許可を出します。

それは居座るためではありません。きれいに離れるための準備です。

私はまだ同じ家にいます。十年以上が過ぎました。それでも、あの物置部屋にいた頃の自分とは、まったく違う気持ちでここに座っています。

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