聞き上手だね、と言われたことがあります。古い友人2人からです。
うれしくないわけではありません。ただ、正直に書くと、こう思っています。
私の話も、誰かに聞いてほしい。
この記事では、なぜ自分の話ができなくなったのか、実際に話したときに何が起きたのかを書きます。明るい結論にはなりません。
聞き上手と言われるのは、解決したあとです
答えは、相手の中にあります
私がやっているのは、特別なことではありません。聞くことに徹しているだけです。
相手の話をひたすら聞いていると、たいていの場合、相手は自分で答えにたどり着きます。悩んでいる本人が、どうすればいいかは一番分かっています。
分かっているのに、実行する勇気がないだけです。だから最後に勇気を添えて、やってみたらいい、と後押しします。私がやっているのはそこまでです。
「君にだけだよ」と言われます
聞き上手だね、と言われるのは、いつも問題が終わったあとです。
乗り越えられたあと、あるいは良いことがあったあと。そのときに振り返って、そういえば君は聞いてくれたね、という話になります。
そしてこう言われます。君にだけだよ、家のことをここまで話すのは。
信頼はしてもらっていると思います。それは分かります。
それでも、私の話も聞いてほしいです
ただ、そのたびに残るものがあります。
私の話は、誰が聞いてくれるのだろう、という気持ちです。
自分の話を聞いてくれる人は、一人もいません
家族とは話しません
まず家族とは会話がありません。自分のことを話すような関係でもありません。
事実のやりとりはします。それだけです。
友人は2人だけです
友人は、その2人だけです。他につながりはありません。
その2人は、私に話してくれます。私は聞きます。逆向きにはなりません。
数えてみると、自分の話を聞いてくれる人は、今のところ誰もいないことになります。
だから、日記に書いています
その代わりにやっているのが、日記です。
紙に書いて、自分と対話しているような感じになっています。相手がいないので、自分でやるしかありません。
これで足りているかと言われれば、足りてはいません。それでも、書かないよりはずっとましです。
「君の家はどうなんだ」と聞かれたとき
こちらのほうが、はるかに重い
自分の話をして失敗した場面は、たいてい同じ形をしています。
相手が自分の家族のつらさを話してくれています。それを聞いていると、こう聞かれます。君の家はどうなんだ、と。
流れとしては自然です。だから話します。
ところが、こちらの内容のほうがはるかに重いのです。父親から手を上げられていたこと。家の中で起きていたこと。そういうものを話すと、場がしらけます。
罠にかけたような顔をされます
そのとき相手に浮かぶ表情が、忘れられません。
自分は今まで、こんな重い話を隠している人間に向かって、自分の悩みを重大なこととして話していたのか。そういう顔です。
罠にかけられた、とでも言いたそうな空気になります。
相手を責めるつもりはありません。相手は聞き上手ではないので、どう返せばいいのか分からないだけです。返す言葉がないから、空気が固まります。
毎回、言わなければよかったと思います
そして帰り道で、必ず後悔します。
あれは話すべきではなかった。聞かれたから答えただけなのに、なぜか自分が悪いことをした気分になります。
これを何度も繰り返すと、話すこと自体が怖くなります。私の場合はそうなりました。
話してよかったと思えた相手は、まだいません
親戚に話したときのこと
聞き上手そうに見えた親戚の女性に、話してみたことがあります。
その人は、肝心なところには触れませんでした。避けている、というのが分かります。
そして、やったらできるよ、というような言葉が返ってきました。表面をなでるだけの言葉です。なかったことにしようとしている姿勢が見えました。
悪気はないと思います。それでも、そのあとに残るのは虚しさだけでした。
一番話せそうな人が、一番遠い
おかしなもので、家の中で一番苦労しているのは父です。
だから本当は、父とこそ同じ土俵で語り合えるはずだと思っています。同じものを見てきたからです。
ところがその父が、一番コミュニケーションを嫌います。結果として、一番遠い存在になっています。
話せそうな人ほど話せない。この構造は、ずっと変わっていません。
アニメみたいに空まで飛んでいく、と言っていました
軽い話に変換する技術
重い話を、軽い話に加工して話していた時期もあります。
たとえば父に殴られた話をするとき、どこをどう殴られて、そのとき自分がどう感じたか、とは説明しません。
代わりにこう言います。アニメでお腹にパンチをもらって、変な顔になって空まで飛んでいく、あの感じ。
そう言うと、相手は笑ってくれます。場は重くなりません。
笑ってくれる。でも、核心からは遠ざかります
ただ、これをやると、話そうとしていたことからどんどん離れていきます。
本当に伝えたいのは、殴られた事実ではなく、そのときに自分の中で何が壊れたかのほうです。冗談に変換すると、そこには絶対に届きません。
相手は笑っている。こちらは何も言えていない。この状態が続きます。
変換すること自体が、面倒になりました
今は、その加工すらしなくなりました。
手間をかけて軽くして、それでも伝わらないなら、最初から話さないほうが早い。そう思うようになったからです。
これが良いこととは思いません。ただ、そうなりました。
話す代わりに、書いています
読む人が不快にならないかを考えます
今こうして書いているのは、話せなかったことの代わりでもあります。
ただ、書くときにも制限はあります。読んだ人が不快にならないかどうかを考えないといけません。だから、ある程度は抑えて書いています。
話すときは相手の表情が変わるのが見えてしまいますが、書くときは見えません。そのぶん、最後まで言い切れます。この差は大きいです。
それでも、思い出すこと自体に意味があります
もう一つ気づいたことがあります。
こうして久しぶりに過去のことを思い出す作業そのものが、自分にとって貴重で、意味のあるものでした。
誰かに聞いてもらうためだけに思い出しているわけではないのだと思います。
おわりに
自分の話をすると気まずくなる。この感覚に、きれいな解決策は用意できません。
話す相手を選べばいい、少しずつ開けばいい。そういう助言はよく見ますが、そもそも選べるほど相手がいない人もいます。私がそうです。
ただ、一つだけ書いておきたいことがあります。
以前、自分の人生と困っていることを手書きで30枚ほど書いて、あるクリニックに持っていったことがあります。その先生は、読んだうえで、これをコピーしてもいいかと言ってくれました。
話したわけではありません。読んでもらっただけです。それでも、あのときの気持ちは今も残っています。
話すのが無理なら、書いて渡すという方法があります。声が出ない相手にも、紙なら届くことがあります。
聞いてくれる人は、まだ見つかっていません。それでも、届く形は一つずつ試していけると思っています。



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