視線を感じたとき、私は震えません。
汗も出ませんし、顔も熱くなりません。声も、少しどもって言いにくくなる程度で、普通に喋れます。外から見れば、たぶん何も起きていないように見えると思います。
代わりに起きているのは、意識が後頭部のほうへ持っていかれる感覚です。自分の後ろの背景に、意識が引っ張られていく。ぼんやりして、自分が自分でないような感じになります。
この記事では、その感覚がいつ始まって、どういう場面で強く出て、何が効かなくて、何が少し効いたのかを書きます。
始まりは、就職活動だった
始まる前から、すでに逃げ回っていた
はっきり自覚したのは、就職活動の真っ最中です。ただ、もっと言えば、始まる少し前からでした。
周りがあたふたと動き始めた時期です。胸を強く締めつけられるようなストレスで目が覚めるようになりました。大学にスーツで行きたくない。就職活動の話を耳に入れたくない。とにかく逃げ回って、話を聞かないようにしていました。
あの頃すでに、社会ではやっていけないという漠然とした恐怖を持っていたのだと思います。
他の大学の人と比べられる場所で
実際に始まると、案の定でした。
他の大学から来た人たちと同じ場所に並べられ、比べられる。それが苦痛でした。雑談ができません。劣等感と恥ずかしさで、かなり苦しみました。
会場に向かう電車やバスに乗ること自体も不安が強く、何度も途中で引き返しました。
一次は通っても、面接には行けなかった
説明会や一次試験までは、受かったところもありました。
けれど面接という、人と向かい合う場面になると、必ず逃げていました。毎回です。
ここが自分の弱点だと、はっきり分かった時期でした。
きついのは、誰とも関わっていない人たちがいる場所
一対一のほうが、まだ動ける
意外に思われるかもしれませんが、カフェで誰かと一対一で話すときは、ある程度なんとかできます。
相手が決まっていて、何が起きるか予測がつくからだと思います。
本が読めなくなるのは、こういう場所
本当にきついのは、不特定多数の人がいて、その人たちが互いに関わっていない場所です。
カフェで、それぞれが別々のことを楽しんでいたり、何かに集中していたりする。あの状況は、私にとって不確実性が高すぎます。
誰がいつこちらを見るか分かりません。自分のことを笑っているのではないか。顔や体型や姿勢がおかしいのではないか。そう考え始めると意識が過剰になって、目の前の本が読めなくなります。文字を追っていても、内容が頭に入ってきません。
電光掲示板の文字が、頭に入らない
電車でも同じことが起きます。
ホームの電光掲示板を見ているのに、文字も時間もすぐには理解できないことがよくあります。見えてはいるのに、意味として入ってこないのです。
情報を処理する側の回路が、別のことに使われてしまっているのだと思います。
体に起きていること
震えない。固まる
視線を感じたときに起きるのは、体の動きが硬くなることです。
動作がぎこちなくなります。そして、とにかく疲れます。何もしていないのに、体力を使っています。
よく言われる、汗が噴き出す、手が震える、顔が真っ赤になる。私の場合はどれも当てはまりません。だから外からは分かりにくいと思います。
意識が、後頭部に持っていかれる
一番説明しにくいのが、この感覚です。
意識が自分の後頭部のほう、背景のほうへずっと引っ張られています。ぼんやりして、自分が自分でないような感じになります。
言い換えると、自分というものが、周りの目から見た自分の位置にいるのです。今この瞬間に自分が立っている、歩いている、という実体の感覚が飛んでいる。自分の体の中に自分がいない状態です。
誰もいない真夜中でも、同じ
おかしいのは、これが人のいない時間でも起きることです。
真夜中や早朝、周りに誰もいないときでも、同じ感覚になります。
もし誰かがいたら、という前提が体に染みついてしまっているのかどうか、自分でも分かりません。ただ、視線そのものがなくても起きるということは、外にある視線の問題だけではないのだと思います。
効かなかった方法
集中して歩く
まず、集中して歩こうとする方法です。効きませんでした。
集中しようとすると、自分の動きを監視することになります。監視する対象が自分になるだけで、見られている感覚は消えません。
気にしない、気にしない
もう一つが、気にしない、気にしていない、と自分に言い聞かせる方法です。
これは逆効果でした。むしろ気になっていきます。
当たり前といえば当たり前で、気にしないと唱えるためには、まず気にしていることを思い出さなければいけません。おまじないを唱えるたびに、意識がそこへ戻ってきます。
世の中でよく勧められている方法ですが、私には合いませんでした。
効いたのは、正面から向き合わない方法
何か用事をしながら
少しマシになったのは、何かをしながら歩くことです。
ノイズキャンセリングのイヤホンをつける。スマートフォンを触りながら歩く。手をマッサージしながら歩く。
用事がある状態を作ると、意識がそちらへ持っていかれます。視線のことを考える余地が減ります。
消えるわけではありません。多少です。それでも、固まって動けなくなるよりはずっといいです。
まっすぐ歩くだけが、一番難しい
逆に、何も持たず、まっすぐ前を見て歩くだけ。この基本的な動作が、私には一番難しいです。
正面が無防備になったような、本能的な不安に駆られます。落ち着きません。
そして始まります。歩幅はこれでいいのか。手の振り方は不自然ではないか。姿勢は変ではないか。おかしいと思われているのではないか。
何も持っていないと、意識の向かう先が自分しかなくなるからだと思います。
おわりに
ここまで読んで、自分と似ていると感じた方がいるかもしれません。
視線が怖いというと、震えたり赤くなったりするものだと思われがちです。そうではない形もあります。何も起きていないように見えて、内側では意識がずっと自分の後ろに立っている。そういう状態もあります。
そして、気にしないようにする方法は、少なくとも私には効きませんでした。効いたのは、意識に別の仕事を与えることでした。
なお、ここに書いたのは私の個人的なやり方です。この感覚が日常に支障を出しているなら、医療機関で相談できる内容でもあります。私は今は通院していませんが、それは私がそう選んだというだけの話です。
最終的には、何も持たずにまっすぐ歩けるようになりたいと思っています。今はまだ、そこには届いていません。



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